倭草画序
伏犠方牙倉精易を造て政をなすと
いへとも■なし仍て其形を画是を画の
始とせり我朝用明天皇元年百済
より画工白加を奉る其後和漢大に
行れて今猶名家あけて算へからす
爰中に又一家あり狩野家漢家の
画法に拘はらす今様の風流を画て
たゝ人の眼を歓しむ呼て浮世絵と
いへり其図する所先歌舞妓者
或は遊女舞子の品定して向へは
唇を動し有は流目にすいはゆる画に
かける女に心を動といへるは是等の
事なるへし最江都に両三家の
寿工ありて■を絶品とす若漢帝の
時に遊はゝ必す賂にあつからむか然と
いへとも其丹青細微なるかゆへに
却て貴公子の御前■客の席上
にして早筆の一興少し彼叮嚀の
徳を模するに似たりさるを近頃湖龍斎
なるもの工夫を懲し濃薄の墨に
五色を施かことく■誠に好手といはん
書肆何某其図する所を集て
冊子となし諸人の弄にせむと
其序を乞予此是に疎といへとも
湖龍と交の久しけれはいなむに所なく
聊馬蹄をならす事となりぬ
安永辛丑初春 雲中庵蓼太